Last Exit 独り言

「自分」という存在について〜ミュウツーの逆襲からその答えを探る〜

鏡で自分を見るたびに、自分は他者にはどう映っているのだろうかと疑問を感じることがある。そして同時に「自分とは何者か」といった抑えきれない自分という存在に対する疑義を抱いてしまう自分がそこにはいる。

生まれてから死ぬまで、「自分」という器から脱走することは永久にできないし、最期まで「自分」に拘束されて朽ち果てていく。

そこに自分は何故か猛烈な恐怖を昔から感じてしまうのである。

ある脳科学の記事で、人の性格は50%が生まれつきであり、50%が後天であると紹介されていた記憶がある。

あの有名なジョン・ロックは、「人間は生まれた時は白紙である」という考え方であるタブラ・ラーサを主張したが、そうではなく、既に生まれつきで性格の50%は確定してしまうことが脳科学的な考え方らしい。

ジョン・ロック - Wikipedia
ジョン・ロック(John Locke、1632年8月29日 - 1704年10月28日)は、イギリスの哲学者。

例えば、人見知り・人懐っこい、鈍感・繊細、優しい・意地悪、友好的・自己中心的・利他的など、ある程度は生まれつきで左右する。一方で残りの50%は後天的なものであり、実際、幼少期シャイだったのに大人になったら人見知りしなくなった人や、神経質だったが、大人になるにつれて開放的になる人も多い。

人間とは普遍的ではなく、可変的であるということ。経験や努力、環境、考え方の修正によって50%は性格を変えていくことができる。

しかしながら、やはり50%は生まれつきで決定してしまう。その素質が、現代社会に適合していれば出世し幸福になることができるだろうが、そうでなければ、エラーとなり、社会から切り捨てられ生き残ることが難しくなる。

ここに社会の残酷さ、というよりも冷酷な運命のようなものが内包している気がするのである。

天性の50%の本質は、死ぬまで自分が付き合っていかなければならないものだ。捨て去ることは決してできない。

それこそが自分の存在に対する恐怖として感じてしまう所以である。即ち、最期まで「自分」に拘束されて朽ち果てていくということである。自分からの逃走は決してできない。

話は変わるが、仕事、結婚、育児。人生のフェーズのどこかしらで、程度の差はあれ「何故生まれたのか」「何のために生きていくのか」といった疑問を誰しもが感じるのではないか、と私は考えている。

その理由は、自分がどうなりたいかといったアイデンティティの迷いもあるだろうし、人生の帰路に立ったからかもしれない。自分の本質や本能が、今置かれた現状に対して迷いや違和感と言った訴えを起こしているからかもしれない。

人間は迷い、苦悩することができる、というよりもしてしまう。

太古の昔から、「何故生まれたのか」「何のために生きていくのか」という命題を人は持ち続けているらしい。その答えを探るために、宗教や哲学、自然科学が発展してきた。

そして私たちは、その答えを、多種多様な行動に移すことで、探ろうとする。

宗教を信仰したり、酒やタバコで解消したり、ドラッグで溺れたり、愛で乗り越えようとしたり、もしくは子供を育て後世に繋げていく選択をしたり、趣味に没頭したり、もしくは仕事に人生を注ぐことを選んだり。

人間は、生きる意味を無意識に探しそして行動に移しているのではないだろうか。

最近、1998年に公開されたミュウツーの逆襲を拝見した。

見たことがある方は多くいらっしゃるだろうが、簡単な概要を下記致す。

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アニメ「ポケットモンスター」の劇場版第1作目となる作品。ポケモンマスターを目指し旅をするサトシのもとへ、一通の手紙が届く。招待された城で、人工的にミュウの遺伝子から造り出されたポケモン、ミュウツーが、本物のポケモンとコピーのポケモン、どちらが正しいのか、戦いを挑んでくる。命とは何か。存在意義とは何か。

この映画は子供向けの映画だが(というよりも子供には少し分かりづらいテーマだと思う。)、前述した「何故生まれたのか」「何のために生きていくのか」という命題に一つの答えを提示してくれる。

映画のネタバレにはなってしまうが、映画のストーリー終盤、本物のポケモンとコピーのポケモンはボロボロになりながら戦うが、勝敗を決することができない。

彼らは涙を流しながらもどちらが正しい存在で生きるべきかという決着をつけるまで戦い続けようとする。

この涙は何を意味しているのか。それは「どちらが本物か。どちらが生きるべきか。」という命題に対して、正面から向き合い戦いを通す中で、どちらも本物の「命」に変わりなく、「どちらも生きていく価値がある」ということにポケモン達が気がついているからだと私は思う。

そしてミュツーやコピーのポケモンたちは、コピーではないポケモン達と勝敗を決することは辞め、「確かに自分たちはコピーとして人間に創造されたポケモンだが、今ここに存在し生きている。生まれた意味や生きる目的を明らかにするために生きることは辞めよう。意味や目的があるから生きているのではない。今ここに存在し生きているからこそ、生きていくのである」と答えを出し、どこかへ旅立って行くというエピローグで映画は終わる。

サルトルが主張した、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を本来性として主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察するという実存主義に通じるような、「何故生まれたのか」「何のために生きていくのか」に対する答えを「今ここに存在しているから」と導き出した「ミュウツーの逆襲」に私は心から拍手喝采したい。

プラットフォームを持つものと持たざるものの格差の発生や、異常に早い技術革新、情報化社会、そして古い価値観の崩壊とった激動の現代社会では、「努力し続けないと生き残れない」「現代社会に適応しないのは自己責任」と言った声が声高に喧伝される一方で、「自分が望む幸せな生き方」「好き生き方」は、価値観の多様化により過去正しいとされたモデルケースの形骸化によって、自らで模索し結論を出していかざるを得なくなってしまっている気がする。

であれば今後ますます人類は、「何故生まれたのか」「何のために生きていくのか」という苦悩に苛まれていくことだろう。

そしてその背景には、生まれてから死ぬまで、「自分」という器から脱走することは永久にできないし、最期まで「自分」と共に生きていかなければならない過酷な現実があるから、かもしれない。

このような時代だからこそ、この命題に対して、ミュウツーやコピーのポケモン達が導き出した答え。即ち「今ここに存在しているから」という現実存在を重視し、現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考えていく姿勢や考え方は、私たちの心の重荷をそっと下ろしてくれるかもしれないと、私は期待を抱くのであった。

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