人生における最後の救済が「死」なのであれば、その選択をどのように捉えればいいのだろう。
人生に疲れてしまい、希望を塗り潰されてしまっている人たちが自らで責任を持ち、人生を終わらせた人に対して、私は口が裂けても「あなたの決断は間違っていた」とは言えないだろう。(そもそも死んだ人にはもう何にも伝えることはできないが)
自殺を選んでしまう人は心が弱い人なのか。
多くの人や自己啓発本は、嫌なこと、理不尽なことを多く経験すればするほど、人は強くなると言うけれど、それは違うと思う。
それは痛みに対してただ慣れてしまっているだけだ。
そして、現実は、そうした過酷さに心を曝され続けば、心は簡単に壊れてしまうし、一度壊れてしまった心を修復することはかなり難しい。いつまでも首を締め付けられるような息のし辛さと、あとは肩にずっしりと重くのしかかる何かに苦しみ続けられるものだ。
そして悲しいが、その状況が長く続き希望が黒く塗りつぶされてしまうと、何かがトリガーになって、いや、もしからしたらふと魔が刺してなのか、最後の救済を選んでしまうのだろう。
生きることに対して疲れている人に対して、「生きていればいいことがある」という根拠に欠けた言葉も、「もっと強くなれ」という心ない言葉も、正しい言葉のようで当人にとっては何の救いにもならないことが多い。
自分でもどうにもならずに、足掻けば足掻くほど、ただ深みに嵌っていくだけであり、最悪の場合に「最後の救済」に縋ってしまうのだろう。
そういえば自殺をする人の多くは、優しくて繊細な人が多いと聞く。
そうであれば、もしも最初から自分が存在しない世界線が存在するのであれば、その世界を選びたいだろうなと個人的には思う。
でもそれは実際には不可能で、最後の救済の後の世界に待っているのは、残された人の悲しみの一色だけが残るだけである。
残された人の中には、自殺は後の人のことを考えない自己中心的な考えだという人もいるだろうし、そう考える人の気持ちも分からなくもない。
それでも、自分は最後の救済を選んだ人を責める気にはならない。
最後の救済を選ばざるを得なかった人たちを責め立てる人は、救いの手を差し伸べたのか。気がづくことができたのか。。。
最後の救済の後の世界には何が待っているのだろう。
多くの宗教は、生前で善い行いを積めば天国に行け、そうではなく悪事を働けば地獄に堕ちると説く。(宗教によっては自殺する人は地獄に落ちると説く)
一方で、無宗教者であれば、死後の世界は何も存在しない「無」だと答えるだろう。
でも自分は、生きることに疲れ果て、自分の責任で人生を終わらせた人たちに待っている世界に存在するのは、「救い」のみだと信じたい。
それが悲しみに暮れている残されている人にとっても「救い」になるのではないか。