皆さんこんにちは!
ずいぶん前ですが、『ライオン・キング:ムファサ』を観ました。
『ライオン・キング』といえば、子供の頃に観た人も多い作品だと思います。
僕ももちろん初代は知っていましたし、ムファサとスカーの関係については、「まあ、スカーは昔からムファサを妬んでいたんだろうな」くらいに思っていました。
ところが今回の『ムファサ』では、スカーことタカが、最初から悪人だったわけではないことが描かれています。むしろタカはムファサを助けています。ムファサの命を救ったのもタカです。そして兄弟としてムファサを受け入れています。
それなのに、最後にはタカがスカーになってしまう。「なるほど、こういう経緯でスカーになったのか」と普通に観ていたのですが、観終わった後、なんだか少し嫌な感じが残りました。いや、映画がつまらなかったという意味ではありません。むしろ面白かった。
ただ、「これって、結構残酷な話なんじゃないか?」と思ってしまったのです。ちょっと考えてみたいと思います。
ムファサは「努力したから」王になったのか
この映画のメッセージは、おそらくかなり現代的です。
ムファサは王族として生まれたわけではありません。それでも努力し、仲間を集め、困難を乗り越え、最後には王になります。
つまり、「生まれではなく、努力や能力によって人は評価される」という話です。血筋だけで王になるのではない。本当に王にふさわしい人間が王になる。身分ではなく実力。親ではなく自分。生まれではなく努力。現代社会が好む価値観でもあります。
これは一見、とても素晴らしい話です。ところが、ここで僕は少し引っかかりました。
ムファサって、そもそも最初から「王の器」を持っていませんか?
危機に直面したときの判断力。仲間をまとめる力。人から信頼される力。そして自然と周囲を導いていく力。
つまり「努力した結果、王の器を手に入れた」というより、「もともと王になる器を持っていて、それを努力によって開花させた」ように見えるのです。これって、結構大きな違いだと思うんですよね。
もしムファサが、タカより劣っていたら
例えばですよ。
タカは王子として生まれ、身体能力にも恵まれている。頭も良い。リーダーシップもある。周囲からも期待されている。
一方、ムファサは普通のライオン。むしろタカより能力が低い。でもムファサはものすごく努力する。失敗しても諦めない。何度も立ち上がる。そして少しずつタカとの差を縮めていく。最後にはムファサがタカを追い越して、王になる。
もしそういう話だったら、僕はかなり納得できたと思うんです。「ああ、血筋ではなく努力が人を変えたんだな」と。
ところが実際の映画では、ムファサには最初から王としての才能がある。一方でタカには、それがない。ここがどうにも引っかかりました。
だって、タカも努力しているじゃないかと。
タカは最初から悪いライオンではありません。むしろムファサを助けたのはタカです。ムファサを救ったことで、二人は兄弟のような関係になります。タカはムファサを受け入れます。
ところが、そのムファサがどんどん成長していく。周囲から認められていく。そして、タカよりも王としてふさわしい存在になっていく。
自分が助けた相手。自分が家族として受け入れた相手。その相手が、自分より優秀だった。しかも、自分が本来なるはずだった「王」という場所に近づいていく。
これって、普通に辛いですよね。人間だったら、嫉妬することもあると思う。「なんで俺じゃなくて、あいつなんだ」と思うこともあるでしょう。僕は、嫉妬そのものはそんなに悪い感情ではないと思っています。
嫉妬は、そんなに異常な感情なのだろうか
僕たちは誰でも、自分より優秀な人を見たことがあると思います。仕事ができる人。勉強ができる人。容姿が良い人。人から好かれる人。何をやっても上手くいくように見える人。
そういう人を見ると、「いいなあ」と思う。場合によっては、「なんで自分は……」と思ってしまう。これは、かなり自然な感情なんじゃないでしょうか。
もちろん、嫉妬したからといって他人を傷つけていいわけではありません。タカが最終的にムファサを裏切ることを正当化するつもりもありません。
ただ、「嫉妬すること」と「嫉妬によって人を傷つけること」は、別の話なんじゃないか。
問題は嫉妬したことではなく、その後どうするか。そこに人生の難しさがあるのではないでしょうか。
努力しても報われない人は、どうすればいいのか
ここで、僕がこの映画を観て一番考えてしまったことがあります。
「努力しても結果が出なかった人は、どうすればいいのだろう」
僕たちは子供の頃から、「努力すれば報われる」と教えられてきました。もちろん努力は大切です。
でも現実には、どれだけ努力しても自分より才能のある人がいる。同じ時間勉強しても、なぜか自分より成績のいい人がいる。同じ仕事をしているのに、自分より評価される人がいる。
これは、努力不足だけでは説明できません。人間には生まれ持った能力の違いがあり、人生には運もあります。どんな家庭に生まれたか。どんな教育を受けたか。誰と出会ったか。どんなタイミングでチャンスが訪れたか。こういうものは、自分では選べません。
ムファサには、才能も努力も運もある
そう考えてみると、ムファサはかなり恵まれています。才能がある。努力もする。仲間にも恵まれる。周囲から評価される。そして運も味方する。
もちろん、ムファサ本人が悪いわけではありません。彼は本当に努力しています。だからこそ成功する。
でも、その隣にはタカがいる。タカだって王子として生まれています。決して何も持っていないわけではない。それでも、ムファサという「圧倒的に王の器を持った存在」が突然、自分の人生に現れてしまった。しかも、その存在を助けたのは自分自身だった。
そう考えると、タカは単純な「努力しなかった人」には見えなくなってきます。むしろ「努力しても、自分より圧倒的に才能のある人間が現れてしまった人」にも見えるのです。
「能力主義」は、本当に平等なのだろうか
ここから少し話を広げます。
僕たちは身分制度のようなものを嫌います。「親が王様だから王様になる」という世界より、「能力のある人が上に行く」という世界の方が公平に感じる。これは当然だと思います。
でも、ここに一つ問題があります。その「能力」は、どこから来るのでしょうか。
生まれ持った才能。親から受け継いだ能力。幼少期の教育。家庭環境。経済力。文化的な環境。人との出会い。そして本人の努力。これらが複雑に絡み合って、その人の「能力」が作られていく。そう考えると、「能力のある人を評価する」という仕組みも、必ずしも完全な平等とは言えないのではないでしょうか。
血統による階級を否定して、能力による階級を作る
親が高学歴で、教育に熱心で、経済的にも余裕がある。子供は小さい頃から十分な教育を受け、勉強する環境もある。その結果、子供も高い学歴を得て、良い仕事に就き、経済的に余裕ができる。今度はその子供が、自分の子供に良い教育を与える。
こうやって考えると、親の階級が子供に再生産されていく、ということが起こり得ます。
もちろん現実はそんなに単純ではありません。親が裕福でも子供が成功するとは限らないし、貧しい家庭から大成功する人もいます。ただ、「生まれた環境が、その後の人生に何の影響も与えない」とは言えないでしょう。
そう考えると、血筋による階級社会を否定して能力による社会を作ったとしても、その能力自体に生まれや環境が影響するのであれば、別の形で階層が再生産される、という少し皮肉なことが起こります。
『ムファサ』に感じた、ちょっとした残酷さ
こうして考えてみると、僕がこの映画に感じた違和感が少し分かってきました。
『ムファサ』は、「努力すれば報われる」という能力主義を描いている。でも、その能力主義の前提として、「人には生まれながらにして、才能や器の差がある」という設定を置いてしまった。
その結果、選ばれた才能のある者は努力によって成功する。一方、選ばれなかった者は努力しても報われず、嫉妬や虚栄心を克服できなければ破滅する。
そういう、かなり冷たい物語にも見えてしまう。これが、僕が感じた違和感だったのだと思います。
タカに、もう一つの道を示してほしかった
僕がこの映画に対して、「ここまで描くなら、もう一歩踏み込んでほしかったな」と思うところがあります。
それは、「王になれない人間にも価値がある」ということです。
世の中には、自分より優秀な人がいる。どれだけ努力しても勝てないことがある。一番になれないこともある。でも、それでもいい。自分には自分の価値がある。そういう答えです。
もしタカが、ムファサに負けることを受け入れながら、「自分は王には向いていない。でも、自分には自分の生き方がある」と考えることができていたら。きっとスカーにはならなかったでしょう。そしてそれは、現実の僕たちにとっても、かなり大切なことなのではないでしょうか。
「努力すれば報われる」という言葉について
僕は努力することを否定したいわけではありません。むしろ、努力した方が人生が良い方向に進む可能性は高いと思います。
ただ、「努力すれば必ず報われる」と「報われた人は努力したから報われた」は、少し違うと思うんですよね。
僕たちは、自分の才能を選べません。生まれる家庭も、親も、生まれ持った性格も選べません。出会う人も、人生に起こる偶然も、完全には選べません。その中で、努力だけはある程度自分で選ぶことができる。だから努力する。
でも、それでも結果が出ないことがある。そのときに、「努力が足りなかった」「自分の能力が低かった」「自己責任だ」と全部を自分に返してしまうのは、少し違うんじゃないかなと思います。
『ムファサ』は、意外と現代社会の話なのかもしれない
『ムファサ』を観る前は、単純に「スカーがどうして悪役になったのか」という映画だと思っていました。でも観終わってから考えてみると、もっと大きな問いが隠れているように感じます。
人間は、自分より才能のある人間が現れたとき、どう生きればいいのか。努力しても報われなかったとき、どうすればいいのか。自分にはない才能を持った人間を、どう受け入れるのか。そして、「成功できなかったのは、あなたの努力が足りなかったからだ」と言い切ってしまって、本当にいいのだろうか。
僕には、この映画がそこまで明確な答えを出しているようには思えませんでした。だからこそ、少し残酷に感じたのかもしれません。
ムファサは悪くない。タカも、最初から悪いわけではない。ただ二人の間には、才能、努力、環境、運、そして出会い。本人だけではどうにもならないものが、あまりにも大きく作用していた。そして最後に、その差が「成功者」と「悪役」という形で表現されてしまった。
そう考えると、『ライオン・キング:ムファサ』は単なるスカーの誕生秘話ではなく、「才能を持って生まれなかった人間は、どう生きればいいのか」という、意外と重い問いを僕たちに投げかけている映画なのかもしれません。
まあ、ここまで考えるのは、ちょっと考えすぎなのかもしれませんけどね(笑)。
でも、映画を観て「なんか引っかかるな」と思ったときに、その違和感をそのままにせず、「自分は何に引っかかったんだろう?」と考えてみる。そうすると、意外と映画そのものよりも、自分が普段考えていることが見えてきたりする。映画って、そういうところが面白いんですよね。
ということで、今日はこの辺で。それではまた!